「……大佐」

またこんなところで、寝て。閉め切ったカーテンの隙間から差し込む陽光だけを頼りに立ち入った仮眠室の隅で、マスタング大佐は静かに 眠り込んでいた。寝ている間にずり落ちたらしい軍服の上着が右肩に引っかかった状態でぶら下がっている。ヒューズ准将の事件が あってからというもの、大佐はアパートに戻らず徹夜で調べ物をしていることが度々あった。夜は部屋に帰ってしっかり休んでくださいと 何度も注意したのだが、一度走り出したこのひとは決して止めることができない。
リザは小さく息を吐いて、彼を起こさないように気を配りながら奥へと近づいていった。いつもより早く目が覚めてしまったリザは かなりの余裕をもって出勤してきていた。あと三十分くらいは眠らせてあげられるだろう。すぐそばまで歩み寄って目を凝らすと、 悪い夢でも見ているのか、くしゃくしゃになったワイシャツの胸の上におかれた彼の右手は、きつく、きつく握り締められ、食いしばった 歯の隙間からはかすかに荒い息が漏れていた。

(わたしに背中を見せたこと、後悔しているか)
(ええ……以前は)

確かあのとき、彼はこのようにしてきつく拳を握り締めていたのだった。

(でも、今は    『あれ』を見せたのがあなたで、本当によかったと思っています)

その手にそっと右手を伸ばしかけて、思いなおして断念する。リザは馬鹿げたことを思いついた自分を心の底から軽蔑した。
行き場を失った手のひらで落ちかけた軍服を拾い上げ、大佐の上半身にかけようと広げて。
瞬時に伸ばされた彼の右手に、冷えた指先をがっしりと捕らえられた。
跳ね上がった鼓動を悟られないように、落ち着いた声で問いかける。

「お目覚めですか、大佐」
「……中尉か。何をしている」
「このようなところでお休みになられるのでしたら、せめて毛布くらいは出してきてください。風邪を引きます」
「そうか、そうだな。確かに明け方は少し冷える」
「大佐」

寝惚けているのか、いつまで経っても握った手を離そうとしないマスタングに、リザは嘆息混じりに口をひらいた。

「その手を離してくださいませんか。上着がかけられません」
「構わん。すぐに起きる」
「ではわたしも必要ありませんね。その手を離してください、片付けなければならない仕事はいくらでもあります」
「君の手も、ずいぶんと冷えているではないか」
「……動けばすぐに、あたたまります」

何を言いたいのだ、このひとは。だがつかまれた手をなんとか振り払おうと腕を動かしたところ、少し強く引き寄せられ不意をつかれた リザはバランスを崩して彼の上に思い切り倒れ込んでしまった。下敷きになった大佐が短いうめき声をあげ、 苦笑混じりに言ってくる。

「うむ、なるほど。さすがはホークアイ中尉、鍛えているだけのことはある」
「殴られたいですか、大佐」
「君の拳など今さら脅しにもならんね」
「もちろん銃も持っていますよ。お望みとあらば、いつでも」

それは怖いと言って笑うマスタングの声は気楽なものだ。驚きなのは、こんな状況になっても彼がリザの左手を離さないということだ。 軍服越しに触れ合った彼の胸から伝わる鼓動は深く、憎らしいほどにゆったりした響き。一刻も早く立ち上がらなければ、この乱れかけた 呼吸をすぐに悟られると思った。
だが身体を起こそうと力を入れた腰を空いたほうの手で引き寄せられ、身動きがとれなくなったリザは、静かに、だがはっきりと棘のある 声で目の前の男に問いかけた。

「寝惚けていらっしゃいますか、大佐」
「わたしが? そうか、そうかもしれん。朝はもともと弱いんだ」
「知っています。あと十分ほどならお休みいただけます、お疲れでしたらお休みになってください。ですからその手を離して くださいませんか」
「十分か。それでは一緒に横になろう。君ももう少し休んだほうがいいだろう」
「……お疲れのようですね。あと二十分お休みいただいて結構です。ですからその手を    はなして、ください」

今度ははっきりと拒絶の音をふくめて、リザ。大佐もまた確かに目の色を変え、間近にあるこちらの顔を覗き込んでくるその暗い瞳の奥を 見つめて    きつく瞼を閉じたリザは、震える唇に覆い被せるようにしてうめいた。

「それ以上あなたに触れられたら、わたしはもう……前に、進めなくなります」

まるで風でも通り抜けたかのように自然なやり方で、マスタングはリザの左手を離した。腰に当てられていた重みもあっという間に消え、 反射的にリザは彼の胸から跳ね起きる。抱きしめたままだった上着を手早く畳んで大佐の脇におきながら、彼女は乱れた呼吸を整え 瞬時に直立不動の姿勢をとった。
小さく身体を動かしてこちらに後頭部を向けた大佐は、独り言のような声音でひっそりと言ってくる。

「すまない。君の言うとおり寝惚けていたようだ。忘れてくれ」
「……二十分後、お迎えにあがります」
「いや、大丈夫だ。自分で起きられる」
「……分かりました。失礼します」

深々と敬礼し、リザは急いで薄がりの仮眠室を出た。人目につかない廊下までいつものように毅然と突き進んでから    ようやく 息をためて、肩にのった得体の知れない重荷とともにそれを吐き出す。外気に触れて冷えた両の指先は今もまだ凍えたままだったが、 喧しく脈打つ心臓のおくと焼けついた頬からは嘘のように熱が噴き出していた。寝起きの悪い大佐はまだ夢から目覚めていなかったのだ。 ただそれだけだ、それ以上でもそれ以下でもありえない。

(上層部に喰らいつくぞ、ついてくるか)
(なにを今さら)

いつもあなたの背中を見てきた。

(君にわたしの背中を任せる)

あの日から、ずっと。

(わたしの部下ならもっと毅然としていろ)

ええ、必ず。だから。
だから    いつまでも、このまま。

(国民を護るべき軍人が、どうしてその国民を殺しているのですか)




愛しているだなんて、言っていいはずがない。