「ライ、いつまで寝てるの、コラ!」
「いっで! な、何すんだ、よ! 恋人はもっと丁寧にあつかえ!」
「丁寧に扱われたかったら、そっちこそレディーはもっと丁寧に扱いなさい。あら、ロイ」

ベッドの上で布団をかぶったまま情けなくうめく兄に覆いかぶさったまま、はたと顔を上げたがこちらの存在に気づいて申し訳なさそうに声をあげた。

「ごめんなさい、起こしちゃった?」
「え、ううん……もう起きようと思ってたところだし」
「あら、そう。いい子ね、ロイは。どこかの誰かさんと違って、ほんとに血の繋がった兄弟かしら?」
「うっせーな、あいつだってお前の知らないところで俺に似て物ぐさなの」
「弟は庇いなさいよ、このろくでなし!」
「いってぇ!! オマエ、殴りすぎだ、馬鹿!」
「馬鹿!? あんた、この学年トップのあたしに、いま馬鹿とか言った? え?」
「あーーー……もう、うるせぇ」

かなり険悪な声でうめきながら、兄は頭まで布団をかぶって彼女を締め出そうとした。だがそんなことで怯むではない。いつものようににっこりと微笑んだ彼女は握り締めた拳を振り上げて、布団の上から容赦なく拳の雨を降り注いだ。




兄はマスタング家に引き継がれる低血圧のせいで極端に寝起きが悪いだけであって、恋人であるに対する態度は概して紳士的なものだった。幼なじみであるふたりが出会った当初から異性として惹かれあっていたはずはない。 だが生憎、僕の最も古い記憶はすでにふたりが恋人だったときのものから始まっていた。ふたりは、誰もがうらやむ、といった表現が ぴったりなほどお似合いのカップルだった。並んで歩くとそれだけで画になるバランスのとれたシルエット、画家を目指す兄とその夢を 認め、支えると決めた献身的な彼女。ただひとつ、いや、兄が彼女に対していくつか不満に思っていることといえば寝起きの悪い自分を もっと優しく起こしてほしいということ、料理の味付けをもっとしっかりしてほしいこと、あまり爪を伸ばさないでほしいということ、 それから    彼女がどこから学んできたのか、空いた時間に熱中している錬金術とやらにあまり深入りしないでほしいということ。

「だけどこれは、ある種の芸術だと思うのよね」

ひとりの時間も大切だといって兄が散歩に出かけている間、マスタングの庭でひとりやたらと分厚い本を広げていたはロイが近づいたことに気づくとにっこり微笑んで手招きした。開いたページにはぎっしりと文字が並び、ところどころに 挿入された図像はロイにはまったく分からない代物だった。

「宇宙の流れを知り、それを分解して再構築する    同じだわ。あの人が目指してるものも、きっとそういうことでしょう」

はうっとりした面持ちで空を見上げながらそう言ったあと、はたと我に返って気まずそうに微笑んでみせた。

「ごめんごめん、ロイにはちょっと難しかったかな」

ロイは子ども扱いされたことに少し腹を立て、むっとした表情で抱えた膝を抱き寄せる。

「分かるさ、僕だって」

はその大きな瞳できょとんとしたあと、噴き出すように笑ってロイの頭をくしゃくしゃと撫でた。

「そーね。ロイはとっても賢いものね。どこかの誰かさんと違って」

その笑顔に胸をくすぐられる思いと    あまりの歯がゆさに、息が詰まりそうになる気持ちと。どんなに狂おしいほど思っても、 彼女にとって自分はいつまでも弟のような子供でしかない。そして自分もまた、いつまでも大人になれきれない子供なのだと思い知らされて、 ロイは兄が戻ってきたあと、ひとり部屋に引きこもって泣いた。




兄が死んだのは、僕が十五歳の冬だった。小さな一軒家に兄とふたりきりで暮らしていたロイは、突然嘘のように静かになった空間に戸惑った。 兄が取り立てて喧しい人間だったわけではない。だが確かに存在したはずのその気配を失うと    彼は空っぽの胸の中に、 冷たい隙間風でも通り抜けるような思いがした。
彼女はしばらく、兄の部屋にいた。その布団に兄の温もりを、その匂いを確かめるように。簡単な食事を作って持っていくと、彼女は ベッドに横たわったまま声をひそめて泣いていた。

「……ごめん。ごめんね、ロイ」
「……?」
「あなたのほうがずっとつらいはずなのに……あたし、こんなので……ごめん」

僕には分からなかった。兄が死んだことが悲しいのか    それともどれだけの月日が流れても、兄を忘れられない彼女を 見ていることのほうがつらいのか。




、僕は士官学校に行くよ」

十六歳の夏、僕はひとつの決意を固めた。兄の部屋に住み着いた彼女は、何も手につかない様子でいつも南向きの窓からぼんやり外を 見ていた。
こちらの呼びかけに、少しだけ振り向いた彼女の瞳はもう以前のような輝きを放つこともない。

「両親を亡くしたあの暴動から、ずっと考えていたことなんだ。僕は力のない民衆を護りたい。軍の狗と罵られてもいい。 軍に頭を垂れてでも、僕は脅かされる民衆の生活を護りたい。兄さんは……ずっと、反対してたけど。でも僕は、自分の意思で そうすることを決めたんだ」

彼女はほんの少し目を開いただけで、何も言わなかった。そのことに深く胸を抉られながらも、しっかりとその先を続ける。

「だから、もうにもこの家を出てほしい。いつまでもこんなところに閉じこもっていたらだめだ。忘れろとは言わない……でも君は、 外に出なければ。君が必死に学んでいた錬金術は、大衆のためにあるんだろう。こんなところでくすぶっていたらいけない。 君の力を必要としている人たちがいるんだ」

もうこんな薄汚れた場所から離れてほしい。その冷たいベッドから    一刻も、早く。
はベッドの端に座り込んでいた背中をわずかに伸ばし、独り言のような声音でつぶやいた。

「……そうね。いつまでもこんなことしてたら、だめよね」


少し安堵して表情を緩めたロイに、今度は上半身ごと振り向いては微笑んでみせた。その頬は痩せ落ち、昔ほどの輝きはなかったけれど。
それでもその笑顔は、確かに彼の愛した彼女のものだと思った。

「からだに気をつけてね、ロイ」




が死んだのは、私が十七歳の冬だった。士官学校の短期休暇、久しぶりに彼女の顔を見たいと思い、東部の田舎に戻ることにした。 兄と暮らした家。生きる意欲を失い、抜け殻のような存在になった彼女が一年近くこもった兄の部屋。
だが一年振りに舞い戻った我が家でロイが目にしたのは、信じられないような絶望的な光景だった。

「あ……あ、あ……」

声が、出ない。呼吸する術さえ忘れ、気づいたときには煤けた床に膝をついたロイは、激しく咳き込みながら吐き気のする唾液を ぼたぼたと足元にこぼしていた。拭うことすら思いつかず、ただ眼前に広がる血の海に戦慄する。むっとする臭気に再び嘔吐し、 ロイはしばらくその場に崩れ落ちたままどうすることもできずに震えながらうずくまっていた。

が、死んだ。

あまりにも複雑な練成陣、その中央で人の形をした何かが血に染まって転がっている。そして陣の外に倒れた人間のからだは    首から上を、 失っていた。だがとうとう青ざめた顔を上げたロイは、そこで何が起こったかをはっきりと悟った。




ぼろぼろになった彼女を放って離れるべきではなかった。だが、悔いたところで彼女は戻ってこない。錬金術とはいったい何だろう。
大衆の幸福を願うため。ならばどうして    このような悲劇を、繰り返す。

ロックベル家を後にしたロイは、馬車で駅へと戻る途中、通り過ぎたエルリック家を横目で一瞥してそれと分からない程度に軽く身震いした。 少尉がほんの一瞬だけこちらを見る。吹きすさぶ風のせいにすればいい。ロイは軍服の中で肩を慣らしながら折り畳んだ資料を懐に差し込んだ。

「来るでしょうか、あの子たち」
「来るさ」
「たいそうな自信ですね。あのエドって子、再起不能のような目をしてましたけど」
「そうかね? あれは焔のついた眼だ」

再起不能な人間などいない。それを思い切るだけの心と    それを支える、誰かがいれば。
それとももしかしてあのとき、 自分もまた彼女を練成していればよかったとでもいうのだろうか。人は必ず、過つものだと。

そんなことはない。

彼女の美しい思い出を抱いて、そしてあの血の海を忘れないように。
だから私は、今でもこうして走り続けるのだ。


あの頃が夢だったように


(タイトルはリライト様からお借りしました。)